昭和35(1960)年に地方史誌専門図書館として設立された当財団は、今日まで近世中後期を中心に地方史研究のための施設として収蔵品を中心とした展覧会や歴史塾(公開講座)の開催を行い、また多くの研究者に研究資源の提供を行うなど、広く教育文化の向上に寄与するとともにその役割を果たしてまいりました。また、令和4(2022)年11月に奈良県指定史跡であった郡山城跡の国史跡指定に伴い、より積極的な保存管理を図るため、城跡内の当財団所有地を中心に、大和郡山市や関係諸団体の協力を得て整備並びに維持管理に努めてきたところです。
事業運営につきましては、長引く新型コロナウイルス感染症蔓延の影響を考慮し、安心、安全に配慮した取り組みを進めてまいりました。その中で、毘沙門郭内極楽橋周辺(番屋・四阿等)修景整備工事は、令和4年3月に整備、改修を終えました。四阿と柳沢文庫周辺庭園は、来訪者が憩う快適な空間に生まれ変わり、毘沙門郭内の回遊性を高める効果をもたらしました。また、江戸時代末期建物(番屋棟)は改修後、屋外テラスを備えた「番屋カフェ」として郡山城跡を訪れる方に軽食・喫茶を提供する休息施設としてオープンしました。
今後も、国史跡郡山城跡の保存管理に努めるとともに、歴史資料の収集と公開、調査研究等その内容の充実に努め、来館者や研究者、全国の資料館等関係機関へその成果を発信してまいります。
当財団の活動に引き続きご支援を賜りますようお願い申し上げます。
令和5年11月
公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会
理事長 柳澤 とも子
昭和35年(1960)に最後の郡山藩主 柳澤保申(やすのぶ)の長男 柳澤保承(やすつぐ)を中心に財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会が発足し、翌年秋に郡山城跡の毘沙門曲輪に地方史誌専門図書館として柳沢文庫が開設されました。その後、奈良県より認定を受け、平成25年(2013)4月1日より公益財団法人となりました。
柳沢文庫は、財団発足とともに旧大名家である柳澤家から寄贈された柳澤家歴代の書画や和歌・俳諧などの作品、公用日記である年録類をはじめとする古文書・古典籍のほか、奈良県内および柳澤家に関係する地域の自治体史や歴史・文学系を中心とした一般書を所蔵しています。これらの所蔵資料や蔵書を研究のため広く公開するとともに、展示室では年3回の展覧会を開催しています。また、「柳沢文庫歴史塾(郡山学)」(公開講座)を開催し、柳澤家や郡山藩の歴史などについての講演会を行っています。
柳澤家は、甲斐に土着した清和源氏義光 (新羅三郎)の末裔で、なかでも甲斐武田家の流れを汲む一家であり、甲斐国巨摩郡武川柳澤村(現在の山梨県北杜市武川町柳澤)を出自とします。柳澤信俊は武田信玄・勝頼に仕えましたが、武田家滅亡後は、徳川家康に仕えました。柳澤安忠は当初幕臣でしたが、後に、館林藩主であった徳川綱吉に仕え勘定頭を務めました。そして、安忠の嫡男が、館林藩主から5代将軍になった徳川綱吉に側用人として仕えた柳澤吉保です。吉保は、その忠実な働きぶりが認められ、席次は老中上座となり、また、川越城ついで甲府城を拝領し、甲斐一国を支配する国持ち大名になりました。
吉保の跡を継いだ嫡男吉里は、享保9年(1724)に郡山城への転封を命じられました。そして、明治4年(1871)7月の廃藩置県にいたるまで、柳澤家が同地を治めました。
万治元年(1658)12月18日-正徳4年(1714)11月2日
上野国館林藩士 柳澤安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。7歳の時、勘定頭をしていた父安忠に伴われ、初めて館林藩主 徳川綱吉に謁見。延宝3年(1675)家督を継ぎ、保明(やすあきら)と名のる。延宝8年(1680)綱吉が5代将軍に就くと小納戸役となり、以後栄進して元禄元年(1688)側用人となり1万2030石を与えられ、初めて大名に列せられた。以後、しばしば加増を受け、元禄7年(1694)7万2030石、武蔵国川越城主となり、初めて城持大名になった。
元禄11年(1698)左近衛権少将に転任され老中の上座、事実上の大老格となり、9万2030石、元禄14年(1701)松平姓と将軍の名の一字を許され、名も吉保と改め、松平美濃守吉保と称した。宝永元年(1704)には甲斐、駿河で15万1200石を賜った。吉保は終生幕閣にあり、国元へ入国して直接藩政に携わることはなかったが、甲府藩では甲斐一円を支配し、甲府城の修築や城下の整備を進めた。宝永6年(1709)綱吉死去と共に隠居して江戸駒込下屋敷(庭園は六義園(りくぎえん))に住む。正徳4年(1714)11月2日死去し、甲府永慶寺に葬られた。
柳澤吉保の公用日記として『楽只堂年録』(らくしどうねんろく)がある。全229巻。荻生徂徠により編纂された吉保一代の事業録で、和文体と漢文体が存在する。内容は吉保に至る柳澤氏歴代の系譜から、宝永6年(1709)に家督を吉里に譲り隠居するまでの治績が記されている。幕政だけでなく、元禄地震など災害を含む世相や文化についての貴重な記録でもある。なお、吉保の一代記には、他に柳澤家家老・薮田重守により編纂された『永慶寺殿源公御実録』がある。
貞享4年(1687)-延享2年(1745)江戸時代中期の大名。
柳澤吉保の長男として江戸上屋敷に生まれる。初名は安暉(やすてる)、後に安貞(やすさだ)。通称は兵部(ひょうぶ)。
元禄14年(1701)には父吉保と共に綱吉から松平姓と将軍の名の一字を許され、吉里と名乗る。宝永6年(1709)に綱吉が死去して第6代将軍に家宣(綱豊)が就任すると、父の吉保も同年6月に致仕して隠居したため、家督を継ぐ。翌宝永7年(1710)5月に吉里が甲府城へ入城すると、甲府藩は初めて藩主を国元に迎えることとなった。吉里は藩政において、検地を実施し、用水の整備など勧農政策も行った。享保9年(1724)、8代将軍徳川吉宗による幕府政策の一貫で、甲斐の直轄領化に伴い吉里は大和国郡山藩主として移封され、8月13日郡山に入城し、郡山藩主柳澤家初代となる。15万1200石。禁裏守護、南都(奈良)・京都の火消御用を務めた。吉里の公用日記として『福寿堂年録』(ふくじゅどうねんろく)がある。
延享2年9月6日に江戸桜田幸橋邸で没した。59才。
享保9年(1724)-寛政4年(1792)江戸時代中期の大名。
柳澤吉里の四男として郡山城中に生まれる。初め義稠(よしあつ)、信卿(のぶあき)、伊信(これのぶ)。延享2年(1745)父吉里の遺領をつぎ郡山城主柳澤家二代となり、美濃守と称する。
博学多才で文学、芸術を愛し、ことに演劇、俳諧を好んだ。「月村米翁(がっそんべいおう)」、「月村米徳(がっそんべいとく)」、「蘇明山人(そめいさんじん)」、「紫子庵(ししあん)」など多くの俳号を用い、晩年剃髪した後は「香山(きょうざん)」と号す。儒学や漢詩は谷口元淡や荻生金谷に、俳諧は米仲・春来・珠来に学ぶ。
安永2年(1773)家督を保光に譲り、江戸駒込の下屋敷(庭園は六義園)に退隠して風流三昧の生活を送る。亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した。当時の俳諧史、演劇史、風俗史などの研究には欠かせないもので、天明・寛政期の政治社会状況が克明に記されているだけでなく、毎日の江戸(南関東)の天候が記されている。
寛政4年(1792)3月3日、駒込下屋敷で没した。69才。
宝暦3年(1753)-文化14年(1817)江戸時代中期の大名。
柳澤信鴻の長男として江戸桜田幸橋の邸で生まれる。幼名久菊、保明。尭山の号は有名である。安永2年(1773)父信鴻隠居により家督をつぎ郡山城主柳澤家三代。甲斐守と称する。
藩主として、天明大飢饉等の天災や災害対策に取り組み、倹約や様々な改革に取り組んだ。一方、保光もまた、文学芸術を好み、ことに茶道は石州流の片桐一法庵宗幽を主とし、また千家流の宗旦にも私淑してその道を究めている。松江藩主 松平不昧や姫路城主 酒井宗雅などの茶友とも交流した。茶器にも造詣が深く、当時領内で廃絶の運命にあった赤膚焼の復興にも尽力した。和歌は日野資枝に学び、定家様の書を能くするなど諸芸に秀でた。十一代将軍家斉夫人の婚礼前の手習いの師範も務めた。能にも傾倒し、宝生流の能役者・日吉安之を郡山に招き、郡山宝生流を根付かせた。文化8年(1811)致仕して、保泰に譲り、剃髪して専ら風雅の道に親しむ。
文化14年(1817)1月20日江戸新堀邸で没した。65才。
天明2年(1782)-天保9年(1838)江戸時代中期の大名。
柳澤保光の二男として江戸桜田幸橋の邸で生まれる。幼名信近(のぶちか)、のち光雄(みつかつ)。
文化8年(1811)父保光致仕のあとをうけて家督を継ぐ。郡山城主柳澤家四代。甲斐守と称する。文学武芸の振興に努めた。子弟の教育にはことに心を用い、時には自らの手許金より、藩士の学資を補助するなどした。
天保9年(1838)5月25日江戸桜田幸橋邸で没した。57才。
文化12年(1815)-嘉永元年(1848)江戸時代後期の大名。
柳澤保泰の長男として郡山城中で生まれる。はじめ鏐之助のち保興と改める。
天保9年(1838)父保泰の遺領をつぎ郡山城主柳澤家五代となる。甲斐守と称する。
天保11年(1840)12月、光格天皇の葬事に奉護して、泉湧寺に35日間宿衛。嘉永元年(1848)8月21日江戸桜田幸橋邸で没した。34才。
弘化3年(1846)-明治26年(1893) 幕末維新期の大名。
柳澤保興の三男として郡山城中で生まれる。はじめ時之助、保徳(やすのり)、保申と改める。
嘉永元年(1848)父の死によりわずか3才で家督を継ぐ。郡山城主柳澤家六代。甲斐守と称する。
文久元年(1861)5月28日、江戸高輪東禅寺のイギリス公使館が浪士に襲撃された際の功績で、時の女王ヴィクトリアより金牌を贈られる。
郡山における最後の藩主として維新の変革にのぞみ、世相混乱の中にあって、よく士庶を誘掖善導し、郷土の繁栄に貢献した業績は高く評価されている。明治2年(1869)6月17日、版籍奉還により知藩事となった。
産業の発展及び救済に力を入れ、明治20年(1887)には柳澤養魚研究場を設立、金魚の研究につとめ、同26年(1893)には産業の発展を目的に郡山紡績会社を創立、資本金の10分の1を出資している。また、教育振興にも熱心で、尋常小学校・旧制中学校(現郡山高等学校)に多額の金品と土地を提供した。明治17年伯爵に叙せられる。
明治26年(1893)10月2日郡山旧邸内で没した。48才。
柳澤信鴻筆 明和2年(1765)
色鮮やかな牡丹の花と錦鶏を中心に描かれた花鳥画。
徳川綱吉筆 元禄元年(1688)
「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」(『論語』)
徳川綱吉より柳澤吉保が拝領したもの。綱吉の学問の一番弟子となった吉保へ綱吉が示した学問への指標。
漆箱 伝受血脈
元禄13年(1700)8月27日、柳澤吉保は幕府歌学方北村季吟に古今伝受、同年9月27日に伝受書付を受けとった。
(一式は元禄15年〈1702〉4月6日の柳澤邸火災で焼失。当該一式は同年7月12日に再発行されたもの。)
狩野常信筆
柳澤吉保が駒込の下屋敷に造園した六義園の全景観を描かせたもの。
上巻は遊芸門から始まり、六義園作庭の精神的中核ともなった和歌に因む名所新玉松を経て、渡月橋を渡り藤代根まで。
狩野周信筆
中巻は庭園の西南の若松原(和歌松原)から始まり、桜が満開の吟花亭を経て、水香江まで。
狩野岑信筆
下巻は霞入江から始まり、庭園の北西をたどり、千里場までを描く。北方の久護山には毘沙門堂がある。
近世大名柳澤家では、歴代の当主ごとに日記形式の「年録」を作成しました。いずれも「家の記録」として江戸屋敷で作成・保管されたものですが、幕府への提出書類を中心に、郡山城および領内各所での出来事も書き記されています。(奈良県指定文化財)